『ちゃんと愛を受け取る』ってとっても勇気がいる。
男女間にかかわらず、親子だったり友達だったり、会社の上司部下だったり先生と生徒だったり、はたまた通りすがりの人だったり。
そこに結構な頻度で『愛』が存在しているのだけど、意外に受け取ってないことって多いんじゃないのかなぁ。
もらいきっちゃったら怖いからなんとかして同等のものをお返ししないといられなかったり。
『お返し』ではなく、私もまたプレゼントしたいのか、それとも『お返ししない』という状況が怖いから『お返し』するのか。
恐怖感からの『お返し』って『これで関係はフラットに戻りますよね?』っていう確認、免罪符のような気がして、実はちゃんと相手からの『愛』を受け取ってないんだなぁ〜なんてことを最近思った。
もしも、相手からお返しがあるのが前提で物や行為をプレゼントしてるとしたら、それは『愛』じゃなくて『取引』だよね?
相手が『愛』としてくれたものを『お返し』で返した瞬間に「私はこれは『愛』としては受け取りません。『取引』ということで処理させていただきます」っていう意思表示になっちゃうんじゃないのかしら?
(あ、語弊があるの承知であえて書いてます。あくまでも私自身の心のつぶやきとして。)
でもねぇ。思わずしたくなっちゃうんですよね『お返し』。
怖いんですよね。もらいきっちゃうのって。
つまり自分はこれを『愛』としてうっかり受け取ってしまって、相手は『取引』のつもりだったらどうしよう???っていう怖さ。
うん。怖い。
でも、そこを勇気を持って受け取ることこそがもらう側からの『愛』なのかもしれないな。
つまり『ちゃんと愛を受け取る』ってことはちゃんと相手の『愛』を信頼するっていうこと。
そういう意味では「すみません」っていう言葉もおんなじ。
「ありがとう」は感謝だけど、「すみません」は謝罪だもんね。
「許してください」って。
その時点で全く受け取ってない。
ちゃんと「すみません」ではなく「ありがとう」が言える人に。
ちゃんと『愛』を受け取れる人に。
そういう人になりたいな。